明日へのモノガタリ (56): 政治の貧困 - 野中
2024/11/12 (Tue) 12:46:12
アメリカでは、ドナルド・トランプ氏が
次期大統領に選出されました。
「自国ファースト」を宣言したわけです。
じゃあ日本はどうなんでしょう。
今回、アメリカ国民が何を選んだことになるのか。
さまざまな解釈が可能でしょうが、僕は、
「よく見えない未来より、1950年代の過去、
つまり、全世界で独り勝ちした強いアメリカ
という過去の栄光を選択した」のだと思っています。
アメリカという国は「世界一」にこだわって来ました。
だからいつもナンバー2を叩いて来たのです。
冷戦時代のソビエト。1980年代の日本。現在の中国。
・・・つまりナンバーワンの自国を脅かすものはすべて
「敵」だというわけです。
この感覚が極めて貧しいものであることは明白です。
今回の選択で、アメリカが「近代」末期の断末魔の
時期を乗り越えられない存在
であることが明確になったと思います。
日本とすれば、動きは楽になったと思います。
アメリカが過去に囚われ、「近代の閉塞」に身動きが
取れなくなったのを尻目に、
いち早く「近代」から「新生代」へ脱皮し、
世界のリーダーとなるべく、
内外ともに改革を推し進めていけばいいのですから。
まあ、そのためには、日本の中で最も遅れた部分、
「政治」をさっさと刷新しないといけないですが。
=== === === === === ===
モノ-ガタリと人間の関わりについては、ブログの「存在とナラティヴ」
を参照してください。少し長いですが。
また、これからの時代の「平和」について、「平和な世界に向けて」
という文も載せました。ご参照下さい。
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世界に向けて」の題字をクリックしてください。ブログは下記から。)
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明日へのモノガタリ (55): 散歩しよう - 野中
2024/11/01 (Fri) 15:30:27
散歩しましょう。
といっても、ただ歩くだけではないのです。
ぼんやりと、
歩きながら考えましょう。
歩くことはすごいことです。
近代の思想家として著名な
ジャン・ジャック・ルソーは自伝的著書の「告白」で、
こんなふうに言っています。(桑原武夫・訳)
─────────────────
ひとり徒歩で旅したときほど、ゆたかに考え、
ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、
ゆたかに私自身であったことはない。
徒歩は私の思想を活気づけ、
生き生きさせる何ものかを持っている。
じっと止まっていると、
私はほとんどものが考えられない。
私の精神を動かすためには、
私の肉体は動いていなければならないのだ。
─────────────────
じゃあ、どこを歩いたらいいのか・・・・
僕はディズニーシーをお勧めします。
のぼりくだりが意外に多いので、割に疲れますが
景色の豊かさは抜群です。
一人で歩けば豊かに考えられますし、
二人で歩けば・・・・・・。
明日へのモノガタリ (54): キャベツ畑で - 野中
2024/10/31 (Thu) 02:06:59
キャベツ畑でキャベツが取れた。
ひいほい、ひいほい
たくさんいたよ
だけどさ、すごくおいしいキャベツなんで
青虫さんがたくさんついちゃったんだ。
しかたないんで
オレはさ、青虫さんたちに
相談したのさ。
もしよかったら、みんなこの端の
キャベツだけに集ってって
青虫さんさんたちは
ああいいよって言ってくれて、
よるのうちに、
畑の一番端のひと畝(うね)に
わさぐちゃ、わさぐちゃ
青虫さんたちは集って来た。
そして、食べた食べた食べた。
わさわさ、わさわさ
一月したら、畑の端のキャベツは、
青虫さんたちがみんな食べてしまった。
だけどさ、急におとなしくなっちゃったんだ。
そして、青虫さんたちは、
みんな蝶になって飛んで行った。
オレはなんとなくうれしかったさ。
明日へのモノガタリ (53): ノーベル平和賞 - 野中
2024/10/24 (Thu) 02:35:50
今年のノーベル平和賞を
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会
が受賞しました。
これは、核廃絶に向けて、日本への「もっとがんばれ」
という、世界からのエールなのだと思います。
不幸な事ですが、日本の反核兵器運動は、何度も
分裂・対立を繰り返し、そのたびに反核への
エネルギーを減殺して来ました。
それでも日本の反核運動の灯が消えなかったのは、
日本人の心の底にある、人間に対する信頼と、
核兵器に対する憎悪の感情によるものだと思います。
僕は日本人のアイデンティティは、戦争を憎み、
平和を祈る心だと思っています。
だからこそ憲法第9条は
変えてはいけないものだと考えます。
「核なき世界」・・・これは理想論などではありません。
早急に実現しなければ、世界が滅ぶ、
そういった、極めて現実的な目標なのです。
その実現を目指して、一刻も早く、
「非核連合」を立ち上げて欲しいと思っています。
ノーベル賞受賞を無為に終わらせないためにも。
明日へのモノガタリ (52): いっしょにディズニー - 野中
2024/10/15 (Tue) 12:09:49
いっしょにディズニーに行く。
これは本当に幸福な体験です。
一緒にディズニーに行くことは、
ディズニーのモノ-ガタリを共有できるのですから。
たしかに、ディズニーがあまり好きでもない人と行っても
あまり盛り上がらないかも知れません。
でも、それでも、ディズニーのモノ-ガタリ空間の中に
一日、一緒に居れば、お互いのモノ-ガタリとの接し方が
浮かび上がってきて、有意義な心の交流になると思います。
まあ、問題は「どうしても仲が良くなりたくない人」
と、一緒に行くことになってしまった場合です。
この場合は、ひたすら「別行動」にトライしましょう。
それが難しいなら、長時間かかるスタンバイに並んで、
ひたすら自分のスマホを睨んでいましょう。
でないと、普通にしていたら、気付かないうちに
「仲良く」なってしまいますから。
仲が良い人と一緒に行くディズニーは最高です。
もちろん、その日その時も幸福ですが、
10年、20年と、その幸福な思い出は消えないのです。
何しろディズニーは
「世界で一番幸福な場所」ですから。
明日へのモノ-ガタリ (51): 迷ったらディズニー - 野中
2024/10/02 (Wed) 06:59:29
日々の生活を送る中で、頼りになるのは
ナラティヴ(自身のモノ-ガタリ)です。
これは言ってみれば、大海を航海するときの海図と羅針盤
のようなもので、意識するしないに関わらず生きている存在は
みんな持っているものです。
このナラティヴを持っているからこそ、すべての人間、
(厳密には、「すべての生命的存在」なのですが、今回は
人間に話を限定させていただきます)は、円滑に日常
生活を送れるわけです。
けれど、もちろんナラティヴは万能ではありません。
どんなに有能でも、それは海図や羅針盤なのであって、
間違っていたり、おかしかったり古かったりします。
そして、海路をしっかり確保するためには、ナラティヴを
もう一度見直してみることが、時々必要となります。
僕はそんなときは・・・・・・まあこれは個人的な心構えなのですが
・・・・・・「迷ったらディズニー」と思うことにしています。
ディズニー・パークにいるときの、あの圧倒的な幸福感に
立ち返れば、海路をはずしてしまうことはないはずだと、
僕は考えています。
実際、ぼおっと何も考えずに、「シンドバットの冒険」を
何度も乗っていれば、少しずつ「モノ-ガタリ」が僕の中に
沁み込んで、自然と自分のナラティヴが回復していく気が
するのです。
つまり、僕だけなのかも知れませんが、ディズニー・パークは
僕が僕らしく生きるために、どうしても必要な場所なのです。
僕自身のナラティヴをしっかり持っておくために。
=== === === === === ===
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明日へのモノガタリ (50): 華氏451度 - 野中
2024/09/28 (Sat) 04:39:27
「華氏451度」というSF作品をご存じの方は結構多いと思います。
華氏451度(451°F)は、ほぼ233℃で、これは紙が自然発火
する温度を示しています
この作品はレイ・ブラッドベリによって1953年に書かれたもので、
1966年、フランソワ・トリュフォー監督によって映画化されました。
また、現在、新たな映画化の話もあるようです。
70年も前の小説ですが、当時気鋭のSF作家だったブラッドベリが
本の所持や読書が禁じられた、架空の未来社会を描いていて、
非常に興味ある内容になっています。
題名は本の素材である『紙』が自然発火する温度を意味しています。
華氏というのは、アメリカで主に使われる温度単位で、
詳細は省きますが、
華氏0度(約-32℃)・・・かなり寒い
華氏100度(約38℃)・・・かなり暑い
というイメージで見るといいと思います。生活するには
こちらのほうが摂氏よりもやりやすいかなと思います。
本の話に戻ります。
華氏451度(約233℃)は紙が自然発火する温度を示していて、
この作品は、『本を燃やす=焚書』をテーマにしています。
焚書とは、書物を焼却すること、特に書物に記された思想を禁止し、
その思想の広がりを抑止する目的で、権力者が公開の場で
関連する書物を焼却する行為を言います。
古くは、秦の始皇帝の焚書坑儒(前213)から始まり、
ナチスドイツの焚書(1933)、中国文化大革命の焚書(1966)まで
延々と行われてきた思想・言論の弾圧・統制手段です。
ブラッドベリは、『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる
文化の破壊(a story about how television destroys interest in
reading literature)』だと言っていたそうです。
確かに、テレビやSNSは、モノ-ガタリを速くつかもうとするあまり
物事の理解を浅く単純にしてしまいがちだなと、思います。
やはり人間の文化を正常に発展させるためには書物が必要です。
明日へのモノ-ガタリ (49): 運転手がいない - 野中
2024/09/19 (Thu) 22:39:28
旅行をする楽しさで最大のものは、新しいモノ-ガタリと
出会うことなのではないかと、僕は思います。
では、その旅行で、運転手の居ない電車に乗るとしたら
どうなんでしょう。
もちろん、旅行に出かけて、乗った電車の運転手さんの顔を
見ることなんて殆どありません。
けれども無意識のうちに僕たちは見ていない運転手さんに
旅行に連れて行ってもらっている気分になっています。
つまり運転手さんは、旅行というモノ-ガタリの大事な
登場人物なのです。
運転手さんと同じ風景を見て、旅行している、その思いが
旅行を楽しむ、大きな要因の一つになっているのです。
ところでこのたび『新幹線自動運転』の計画が発表され、
新幹線の一部が自動運転になるそうです。
僕はそう聞いてすごく不安に思ってしまいました。
旅行と言う楽しいモノ-ガタリから、
主役級の登場人物が消えてしまうだなんて。
ネットで「《つばめを動かす人たち》という動画を観ました。
60年以上前のものですが、旅行をする楽しさが
ひしひしと伝わってくる映像でした。
鉄道愛好家としても著名だった、作家の内田百閒さんが
愛してやまない列車でしたが、彼なら自動運転の新幹線に
喜んで乗ったでしょうか。
明日へのモノ-ガタリ (48): モノ-ガタリと社会 - 野中
2024/09/09 (Mon) 03:05:43
社会の基本的なモノ-ガタリが変われば、社会も変わるはずです。
けれどもいつの時代にも「変えたくない」人はいるものです。
「選択的夫婦別姓」なんていう当たり前の制度が、
未だに認められないのは、この「変えたくない」人々が
相変わらず、隠然たる力をもっているからでしょう。
人々がディズニーに行って、幸福になれるのは、
ディズニー自体が、まず「モノ-ガタリ」を持ち、それに
沿う形でパークが作られ、そして運営されているからです。
つまり、我々が現・社会で幸福になろうとするなら、
まずそれぞれが「モノ-ガタリ」を持ち、それに沿う形で
社会を変えて行けばいいことになります。
でもなかなかそうはならないようです。
一つの例として、日本の家族制度を挙げます。
現行の日本の家族制度は、一方的に女性の側に負担を
押し付けて、それで成り立っている制度です。
姓を変えて、夫と同じ「家族のモノ-ガタリ」に加わるのは、
人格全体が変わってしまうぐらい大変なことです。
それは女性の「モノ-ガタリ」を圧殺することで、維持できてきた
制度だと言えるでしょう
「変えたくない人々」は、要するに女性たちが幸福になることが
嫌なのでしょう。そうとしか思えないのです。
これまでの家族制度で生きて行きたい人は、もちろん
夫婦別姓を選択しなければいいだけの話ですから。
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明日へのモノ-ガタリ (47): 楽しい学校 - 野中
2024/08/26 (Mon) 13:41:36
学校って、本来楽しい所です。
学校って何を学ぶところなのか?
簡単です。いろんなモノ-ガタリを学ぶところなのです。
だから本来、学校はすごく楽しい所のはずなのです。
学校でいろいろなモノ-ガタリを知って、
自分なりに考えて、自分のナラティヴ(個としてのモノ-ガタリ)
を少しずつ作り上げて行く、こんな楽しいことはありません。
いちばんモノ-ガタリとは遠そうな数学から考えてみましょう。
古代のピタゴラス学派は「この世のすべては数字で示せる」
なんて考えていたみたいです。
数学のモノ-ガタリは、最初はすごく分かりにくいです。
式の計算やら因数分解やらで、「ナニコレ」の世界です。
けれど微分積分までくると、そのモノ-ガタリがパッと
見えて来ます。
それは今から3~4世紀前の学者たちが必死になって
がんばってくれた成果です。名前で言うと、
ニュートンやライプニッツと言った人たちです。
微分積分をやっていない人に説明すると、
要するに『変化』というものをそれまでよりずっと
鮮明にするのです。
要するに、微分積分は『変化専用の虫メガネ』
みたいなものです。
その虫メガネを手に入れた時、僕はあまりの
うれしさに泣いてしまいました。
なぜそれまで数学をやらされてきたのか、
一気に分かったような気がしたからです。
いうまでもないことですが、他の教科はもっと直接
モノ-ガタリと関わっています。
たとえば英語です。
ディズニー映画の「ハイスクール・ミュージカル2」
で主題歌のように唄われる、
You are the music in me.
という曲がありますが、僕はこの「in me」に何だか
ものすごく感動してしまいました。
訳すとしたら「私の認識領域のすべて」とか
「私の内的世界のすみずみまで」などというふうに
なるのでしょうか。コトバのモノ-ガタリの奥深さを
思い知らされた気がしたものです。
ともかく、実は学校で教えている教科はすべて「楽しいモノ-ガタリ」
にかかわるものなのです。
つまり学校で教わっていてタイクツなのは、教える先生たちが
「仕事」として、ひいては「近代合理主義的ルーティン」として
教えてしまっているからなのです。
もうすぐ「近代」が終わります。(いや、「終わらせるべき」と言った
ほうがいいのかも知れませんが)、そうなれば学校は今よりずっと
楽しいものになり、『生徒を選ぶ学校』から『生徒が選ぶ学校』へと
変わっていくと思います。
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明日へのモノ-ガタリ (46): ファンタジア - 野中
2024/08/22 (Thu) 14:45:23
映画「ファンタジア」は1940年の作品です。
84年前のこの映画で、天才・ウォルト・ディズニーは
何を人間に示したかったのでしょう。
フィンランディアという楽曲があります。
シベリウス作曲のこの曲は、フィンランドの人々を強く
結束させ、フィンランドという国を守り抜く大きな力に
なりました。
つまり「フィンランディア」は「フィンランドの人々の精神」
として、フィンランドを強固に支えています。
同じように、「ファンタジア」は、「ファンタジーを支える精神」
として、ウォルト・ディズニーが最も大切にしている
「ファンタジー=良質で幻想的な物語」の素晴らしさを
ウォルトらしいやり方で示してみせたものです。
この映画の中では、生命とファンタジーの関わりが、
論理的でなく、感覚的に、そして音楽を使って示されます。
この映画を見ていて、厳粛な気持ちになるのは、
すべての場面で、ウォルトのファンタジーへの想いが
凝縮して示されているからです。
もちろん『純粋な音楽ファン』の方々の中には、
このような「音楽」の扱いに
ある種の不満を感じる人もいることでしょう。
発表当時から、一部の評論家は、この作品を、
『偉大な失敗作』と呼んだぐらいです。
どういう不満かというと、それはこの作品から60年後に
発表された続編、「ファンタジア2000」を観ると、はっきりします。
ファンタジア2000では、冒頭にベートーヴェンの『運命』が
使われていますが、(この選曲自体にもかなり問題があります)
そこに出現する映像は、「イメージの固定化」でしかないもので
音楽を聴く楽しみを狭め、ファンタジーの広がりを阻害して
いるものです。
ウォルトは、こういう不満を、しっかり把握していたのだと思います。
そしてあえて音楽に『映像』を与えたのです。
そこには本当にぎりぎりのせめぎあいがあったと思います。
音楽と言うカタチのないものと、ファンタジーという現実に
存在しないものを結び付け、映像として示すには、
限りない勇気と機知と、そして子供のような稚気が
必要だったことでしょう。
「ファンタジア2000」には、残念ながらこの
「ぎりぎりのせめぎあい」が感じられません。
ファンタジア2000を観ても、心が膨らんで
こないのは、恐らくそのせいでしょう。
古い方の「ファンタジア」に話を戻します。
この作品は、ファンタジーを愛するものに
大きな勇気を与えてくれます。
フィンランドを愛する人たちが、フィンランディアに
大きな勇気を与えられるように。
明日へのモノ-ガタリ (45): モノ-ガタリと心 - 野中
2024/08/20 (Tue) 09:06:58
今の世界の物語の数を考えて見ましょう。
80億人の人が居るので80億個?
いえいえそうではありません。
イヌやネコなどの動物も、そして木や草の植物も
それぞれの物語を生きているんです。
「物語」を抽象化して、概念として捉えたものが
「モノ-ガタリ」です。
すべての生命は、この「モノ-ガタリ」に沿って生きようとします。
つまり「モノ-ガタリ」は「心」ではないものの、
「心」にぴったり寄り添っているものなのです。
残念ながら我々には「心」を直接認識する能力がありません。
けれども「モノ-ガタリ」に着目することで、
ある程度「心」を理解することができるのです。
例えば、高校で、A君がB君と言う仲間を見つけたとしましょう。
B君について知るためには、何が必要でしょう?
外見については「見ればわかる」わけです。
ただし「B君が自分の外見をどう思っているのか」は、
見るだけでは、分かりません。B君がどんなふうに自分自身を
考え、そのなかで自分の外見をどう扱おうとしているのか、
それを実際に訊いてみるなり、彼の行動の中でそのことを
想定してみるなりしないとB君の外見の本当の意味は、
分かって来ないのです。
成績についてもそうです。たとえ成績が悪くても、
B君がそのことを重要視していないのなら、B君を
知るためには、成績のデータは特に必要がないと分かります。
つまり、B君について知るには、B君の「モノ-ガタリ」
が分からなければ話にならないということです。
逆に言えば、その人の「モノ-ガタリ」さえある程度分かっていれば、
その人の細かいデータを知らなくても、
その人の「心」を、ある程度理解できているということになるのです。
明日へのモノ-ガタリ (44): 終戦の日 - 野中
2024/08/15 (Thu) 12:41:58
今日は79回目の終戦の日です。
猛威を振るった新型コロナウィルスでの世界の死者は700万人、
それに対して、第二次世界大戦での死者は7000万人、
しかし人口比で考えると、大戦での死者は2億人に
達するほどのものだったと言えるでしょう。
三度目の世界大戦が起きるとすれば、使われる武器は核兵器です。
世界の死者は10億人を超えるでしょう
そうならないためには、どうしたらいいのか。
世界が「近代」という時代から一刻も早く脱出したらいいのです。
現在の国際連合は、「近代国家」中心の組織です。
つまり、近代国家たちがそのエゴをむき出しにして機能不全に
陥っている組織です。
国連の中核、常任理事国の5つの国は、それぞれが核兵器を
多量に保有し、それぞれが世界の覇権をうかがっています。
彼らは自ら核武装を止めることはないでしょう。
常任理事国は、『近代国家』だからです。
『近代国家』に世界の平和を維持する力はありません。
世界を「近代」から「新生代」へと変えるためには、
これまでの「経済中心」の「近代的価値観」を改め、
「心」中心の価値観にしていかなければなりません。
(もちろん「心」はそのまま認識することはできないので、
「生命のモノ-ガタリ」の把握をそれに換えるわけですが)
「近代」を越えていくこの歴史の変換に最も近い所にいるのが、
日本という国だと僕は思っています。
つまり、歴史的に最も進んだ位置にいるのが、日本だと考えます。
だから、日本は世界の平和に、貢献すべき責務を持っているのです。
終戦から79年。日本が世界の平和の中心になって
活動していくときが来たのだと、僕は思います。
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明日へのモノ-ガタリ (43): 『最後』の核被災 - 野中
2024/08/09 (Fri) 13:38:49
今から79年前の1945年8月9日は79回目の長崎原爆忌です。
この日を、「最後の被爆日」、とできるかどうかに、
人類の命運がかかっています。
核兵器は、異常に凶悪な武器です。
最大の通常爆弾の威力を1グラムの1円玉とするなら、
最大の核爆弾は10トンのダンプカーの威力があります。
その威力の差は約1000万倍です。
核兵器はそれ自体が、人類にとって、『敵』なのです。
「近代」の次の時代を「新生代」とするなら、
人類が「新生代」を迎えるためには、
この核兵器を廃絶することが明確な条件となります。
なぜ今の国々は核兵器を持ちたがるのでしょう。
国家を握る権力者は、いまだ「近代」的な価値観の中に居て、
経済と軍備を可能な限り伸ばしていこうと考えてしまいます。
その目標の1つとして、核兵器を持ちたいと思ってしまうのです。
つまり、各国が未だ「近代」にいるために、核兵器のような
「遅れた武器」を持ちたいと思ってしまうのです。
そして現在の「近代国家」は押しなべて、隙があれば
自国の領土を拡げようと、狙っています。
「だからこそ、憲法第九条はナンセンスなんだ」
と言われてしまいそうですが、僕はそうは思いません。
繰り返しますが、通常兵器と核兵器には1000万倍の
威力の差があります。これを同列に扱うことは、
それこそナンセンスです。
時代は進んでいるのです。通常兵器と核兵器を別個の
ものとし、核兵器のみを「軍武装」とみなすべきです。
通常武装は、単なる「警察備品」もしくは「保安装備」として
扱えば、憲法九条は現行のまま活かすことができます。
その上で、日本には核廃絶のリーダーとして、『平和のモノ-ガタリ』
を世界に広げていく、責務があると思います。
長崎を「最後の核被災地」とするため、全力を尽くしましょう。
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明日へのモノガタリ (42): 79回目の原爆忌 - 野中
2024/08/06 (Tue) 11:48:10
今日、6日と9日は79回目の原爆忌です。
正直、世界の政治家たちの核兵器に対する無神経さは
もはや人間であることを疑うレベルです。
「杞憂」というコトバがあります。語源は中国古代の周代において、
杞の国の人が、天が落ちてこないかと心配したことから生まれた
ものとされ、『心配しなくてもいいことをあれこれ心配すること』
という意味を持ちます。
では、全面核戦争は「杞憂」でしょうか?
そんなことはありません。全面核戦争は絵空事ではなく、
まさに今、世界が直面する危機にほかなりません。
この危機を回避できるかどうか、まさに人類の命運が
かかっていると言ってもいいでしょう。
今こそ被爆国日本が中核となって、「非核連合」を結成し、
核廃絶に向かって100%の努力をするべき時です。
=== === === === === ===
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明日へのモノガタリ (41): 学ぶ理由 - 野中
2024/08/02 (Fri) 18:27:45
人はなぜ学ぶのでしょう。
簡単です。
その人らしい人生を、しっかりと送るために学ぶのです。
ナラティヴ(個のモノガタリ)という言葉を使えば、
より良いナラティヴを獲得するために学ぶのです。
『自分のモノガタリ=自分のナラティヴ』を獲得すれば、
それを冷静に意識することによって、日々、自分のための
努力を継続することができ、
自分らしい人生を送ることができます。
ナラティヴのいい所は、修復や改築が可能だという事です。
例えば『甲子園』に向かって全力で野球してきた少年が、
能力不足でレギュラーから外されてしまったとしましょう。
その少年は大きく落胆するかも知れません。
少年はけれど、そのとき大きなチャンスを得たのです。
ナラティヴを変容させるチャンスです。
それを機に別の楽しみを見つけるなり、
練習の方針を変えてさらに野球を続けるか、
いずれにせよ、より強固にナラティヴを築いていくチャンスです。
個人的な話ですが、僕はナラティヴの修復や改築には、
ディズニー・パークがとても良い場所だと思います。
個人のナラティヴには、たくさんのモノガタリの要素が
さまざまに入り込んでいます。
ディズニー・パークは、良質なディズニーのモノガタリで
溢れています。つまり、パークに居ることで、個人の
ナラティヴは、ディズニーのモノガタリにどっぷり漬かる
ことができ、ナラティヴの修復や改築がしやすくなるのです。
「人はなぜ学ぶのか?」
もちろん、その人らしく生きるために学ぶのです。
だからこそ、自分らしいモノガタリとはどんなものなのか
さまざまに努力し、いろいろと試み、その中で、自分の
ナラティヴを獲得していくのです。
決してお金儲けや、楽をして生きるために学ぶのでは
ありません。・・・もちろん、さまざまなモノガタリを検討した
結果、自身のナラティヴが、「お金儲け」なのだと思いきれるなら
それはそれで立派なナラティヴだと思います。
多くのさまざまなモノガタリを知って、自分にふさわしい、
そして自らに誇れるようなナラティヴを獲得していくこと、
これこそが人間が学ぶ理由です。
明日へのモノガタリ (40): オリンピックの勝敗 - 野中
2024/07/29 (Mon) 12:28:21
スポーツも含めて、勝負事は、常に勝者と敗者に分かれます。
そこで僕はあえて言いたいのです。
「勝負のモノガタリでは、負ける方がエライ」
敗者がいなければ勝者は存在できないのです。
一対一の対戦では、一方が勝者となり一方が敗者です。
勝者に勝ちを与えたのは、その敗者です。
勝ち、というのが基本的に嬉しいとして、
その嬉しさを与えたのは、まさにその敗者なのです。
与える方が与えられる方よりエライのは当然です。
だから勝者は敗者に感謝すればこそ、敗者に
勝ち誇って見せるなど、勝負のモノガタリでは
ありえない行為です。
ましてはオリンピックなどは、四年に一度しかない、
稀有の舞台です。その舞台で全力を賭けて戦うことは、
ある意味崇高な行為だとさえ思います。
だからこそ、オリンピックを観る場合には、敗者をしっかり
見詰めましょう。そして心一杯、敗者を讃えましょう。
勝者の輝きの『光源』は敗者なのですから。
明日へのモノガタリ (39): ダサイ - 野中
2024/07/26 (Fri) 10:46:18
「ダサイ」の語源を調べてみたら、辞書(角川版国語中辞典)には
なくて、次にネットで調べてみると、『よく分からない』というのが
本当の所でした。
僕は、ダサイは「駄才=くだらないセンス」だと思うのですが。
そう考えれば、「ダサイ」も一種の才能であり、その中には
きちんとした主張やモノガタリが含まれることも分かると思います。
「ダサイ」というのは、けなしコトバであると同時に、
それを発する人間の判断、「そのセンスをくだらないと思う」
という判別のコトバでもあります。つまり、「ダサイ」と言ってしまう
当人の判断こそ「ダサイ」のかも知れないのです。
僕は多分「ダサイ」とよく呼ばれる側の人間だと思いますが、
自分自身を「ダサイ」と思ったことはありません。
だから自分についていくら「ダサイ」と言われても反論
することはありません。無視するだけです。
でも次のような事を言われた時には全力で反論します。
「いい大人がまたディズニーに行くの?、ダサイね」
そんなことを言う人は、ディズニーのモノガタリが
今の社会にどれだけの恩恵をもたらしているかに、
気付いていない人だからです。
明日へのモノガタリ (38): ジャニーズZ - 野中
2024/07/23 (Tue) 08:00:12
ジャニーズがなくなって、悲しい思いをしているのは、
僕だけでしょうか。「ジャニーズ」は一つの大きなモノガタリ
であり、若年層に絶大な勇気を与えていた文化です。
それを大人たちの都合で消滅させていいのでしょうか。
旧・ジャニーズを悪くしていたのは上層部のごく一部であり、
それはもちろん否定されるべきですが、それは
ジャニーズのモノガタリ、ジャニーズの文化を消滅させて
いいということの理由にはなりません。
10年ほど前、知り合いの中学生の女の子が突如、
猛烈に勉強し始めました。聞けば、
「嵐のコンサートに行きたいから」ということでした。
母親が「成績が上がったら嵐に行ってもいいよ」
と約束してくれたそうです。
その女の子は一気に成績を上げました。ただし、
残念なことに抽選を外れ、コンサートには行けなかった
みたいですが。
若年層にとってジャニーズは、勇気・元気の一つの源でした。
それを消滅させたのは「オトナの都合」なのでしょう。
全く醜い話です。「ジャニーズ」の名前には罪はないのに、
オトナの都合で、その文化全体を消滅させてしまうなんて、
今の日本社会には、ジャニーズが必要です。
「ジャニーズ」がダメなら「ジャニーズZ」ぐらいにして、
復活すべきです。
明日へのモノガタリ (37): バイデン氏勇退 - 野中
2024/07/22 (Mon) 05:59:45
ディズニー映画『美女と野獣』に、ガストンという
力が強く、ハンサムで、村人たちから人気もある
マッチョマンが出て来ます。
共和党の大統領候補、ドナルド・トランプとそっくりです。
ガストンが自分を正しいと思い、村人たちを扇動して、
野獣の住むビースト城を襲ったように、ドナルド・トランプ
も、分断を煽って、再びホワイト・ハウスの盟主を狙っています。
バイデン大統領の勇退は、この『21世紀のガストン』に
権力を渡さないようにするための最良の策だと思います。
バイデン氏は、この四年間、沈着冷静に、アメリカの、
ひいては世界の舵取りを行って来ました。
その彼が、「トランプに政治を任せないように」という一事で
勇退を決めたことは、称賛に値します。
なお、ご存じの方も多いと思いますが、アメリカのディズニー
本社も、トランプ氏とは正面から対立しています。
トランプ氏は、韓国映画「パラサイト」が、アカデミー賞を受けた時、
烈しく難色を示したように、映像文化についても「アメリカ・ファースト」
の人なのです。(正確には、アメリカ・白人・ファースト)
ディズニーは、「良質なモノガタリ」を発信することを会社の基盤として
います。人々の中にある多様性をしっかり見据えて、新たな
モノガタリを見出していこうというのが、ディズニー社のやりかたです。
当然、トランプ氏とは対立してしまいます。
わかりやすい例が、名作「リメンバー・ミー」でしょう。
この映画は、トランプ氏が、巨大な壁を作って『分断』した
メキシコの話です。そして内容も「非キリスト」的です。
つまり徹底的に非トランプ氏なのです。
トランプ氏が大統領在任中にこの映画を流行らせた
ディズニー社の姿勢は、(個人的には)素晴らしいと思います。
トランプ氏は「21世紀のガストン」です。彼は『煽られた村人』
には愛されるかも知れませんが、もし彼が大統領に返り咲いたら、
それは、アメリカの没落を早める結果になるでしょう。
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モノガタリと人間の関わりについては、ブログの「存在とナラティヴ」
を参照してください。少し長いですが。
また、これからの時代の「平和」について、「平和な世界に向けて」
という文も載せました。ご参照下さい。
(ブログ冒頭から下にスクロールして、「存在とナラティヴ」や「平和な
世界に向けて」の題字をクリックしてください。ブログは下記から。)
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