物語とナラティヴ

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明日へのモノ-ガタリ (65): ディズニーの優しさ - 野中
2025/01/30 (Thu) 03:24:15
ディズニーのモノ-ガタリは、一つ一つは
それなりに起伏があり、それなりに毒もあります。
けれどそれが集まったディズニー・パークは
とてつもなく優しい場所です。

それが現実離れしていることに、物足りなさを
感じる人もいるでしょう。
実際、今、僕は個人的にとてつもなく不幸な状況に居て、
正直、その状況を脱するために、
ディズニー・パークは何にも役に立ってくれません。

それでも、今現在、たくさんのディズニーを楽しんでいる
人たちがいることは、心の救いになっています。
この地球上に、笑顔が溢れている場所がある、
そのことは、心の一隅を少しだけ暖かくしてくれます。

「そうだ、何とか立ち直って、またディズニー・パークを楽しむぞ」
そんなふうに、今は思っています。
明日へのモノ-ガタリ (64): トランプの物語 - 野中
2025/01/20 (Mon) 21:38:32
明日、アメリカ大統領にトランプが就任します。
「トランプ劇場」は、もうすでに始まっています。
グリーンランドを米国領にする。パナマ運河を取り戻す。
などなど・・・落ち着かない世界になりそうです。

トランプの政策は基本「アメリカさえよければ」というものです。
その意味でとてもわかりやすいです。
トランプの本音を言えば「白人男性中心の国・アメリカ」
なのではないでしょうか。

トランプは「アメリカを再び強大に」
というモノ-ガタリを前に押し出して大統領選を戦いました。
その「強大な国」のイメージはベトナム戦争に突入前、
1950年代の、豊かだったアメリカがモデルになっているのでしょう。
それはきっと、その時代に育った
トランプの少年時代に大きな影響を
与えたように思えます。

「4年間に渡るアメリカの衰退は終わった」
と広言するトランプのモノ-ガタリは
「カナダを51番目のアメリカの州に」
などと、「モノ-ガタリの相手側」を傷つけることには
全く考慮に入れない、「悪いモノ-ガタリ」です。

今後とも、トランプ大統領の動向には最大限の注意が
必要だと考えています。
明日へのモノ-ガタリ (63): アメリカの幸福 - 野中
2025/01/09 (Thu) 03:11:41
アメリカ人の幸福に、ディズニーがどれだけ貢献しているのでしょう。
ディズニー・カンパニーができて100年以上。
そしてディズニーランドが出来て、今年で70年です。

ディズニーランドに行く幸福ってどんなものでしょうか。
僕は「モノ-ガタリに囲まれている楽しさ」だと思っています。
ちょっと面倒な言い方をすれば、
「人は世界をモノ-ガタリの連環として捉えている」
わけです。だからモノ-ガタリに囲まれている
ディズニーランドに行けば、そこに居るだけで、
幸福な気分になれるのでしょう。

その意味で、ウォルト・ディズニーは、
「モノ-ガタリの解放」を、世界で初めて
やってのけた人なのだと、つまりは
「具体的な幸福な場所」を創設した人なのだと
そんなふうに思っています。

ディズニーランドができた1955年頃、
こんな言い方が、アメリカの家庭で、よくされたそうです。
「いい子にしていたら、ディズニーランドに連れてってあげる」
ほとんどの子供は、全力で「いい子」を演じたみたいです。

もはやアメリカだけではないですね。
東京で、パリで、香港で、上海で、
人々はディズニーのモノ-ガタリに接して
幸福な気分になっています。
無条件でディズニー・パークを賞賛するつもりは
ありませんが、ディズニーがなかったら世界は今より
ずっと「不幸な人」が多かったのでは、と
そんなふうに思います。
明日へのモノ-ガタリ (62): 不幸の源泉 - 野中
2025/01/01 (Wed) 10:52:07
たまには、直球も投げたいと思います。
この世界で不幸を作り出しているのは、
「悪いモノ-ガタリ」です。
「貧しいモノ-ガタリ」とも言います。

一般に言われる「物語」には、良い悪いはありません。
あるのは「おもしろい」「つまらない」の区別ぐらいです。
けれどもモノ-ガタリ、とりわけ個のモノ-ガタリである
ナラティヴには、悪いものがあります。
それは「他者のモノ-ガタリ」を傷つけるモノ-ガタリです。

たとえば、現・ロシアの政権は、「ウクライナはロシアに属すべきだ」
というモノ-ガタリの中で、ウクライナ侵攻を開始しはじめました。
そのモノ-ガタリはウクライナという国や文化を傷つけるどころか
抹殺しようとする、完全な「悪いモノ-ガタリ」です。

たとえば、ドナルド・トランプは、「アメリカ・ファースト」を叫び、
大統領選挙に勝利しました。
この「アメリカ・ファースト」は、アメリカに関わる他の国の、
モノ-ガタリを大いに傷つけるもので、「悪いモノ-ガタリ」と
言えるでしょう。

そう、簡明に言えば、「悪いものは悪い」のです。
僕は、「悪いモノ-ガタリ」こそ、
この世界の不幸の源泉だと考えています。
明日へのモノ-ガタリ (61): 百年前、百年後 - 野中
2024/12/30 (Mon) 00:58:37
もうすぐ2025年です。
1925年からちょうど100年。
つまり治安維持法と普通選挙法が
制定されて1世紀が経過したという事です。

これからの100年を考えようとするとき、
これまでの100年がどうだったのかを回想することが
とても大事になると思います。

もちろん時代の変化は
どんどん速まってきていますので、
100年後について、素朴に予測することは
不可能だと思いますが、
100年後はこうあって欲しいと願うことは
できると思います。

とりあえず「治安維持法」について考えてみます。
1925年(大正14年)法律はこうなっています。
「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ
目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ
加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」

これは平たく言えば
「国を批判する組織は無制限に弾圧できる」
という恐ろしい法律であり、この法律を
きっかけの一つとして、日本と言う国全体が、
「戦争肯定」へと進んでいったのです。

大平洋戦争の冒頭で、日本は、ハワイの真珠湾攻略、
マレー沖海戦の戦艦攻撃など、立て続けに勝利し、
日本全国、勝利を祝う提灯行列で、
沸き立ったと言われています。

戦争はスポーツではありません。
勝つことは人々を愚かにするのです。
負けて死んで行った者たちの苦しさや悲しさに、
勝った国の人々は思い至りません。

1925年の治安維持法制定から、
太平洋戦争の敗戦までわずか20年です。
一つの法律が戦争をもたらした、
とまでは言えないでしょうが、
もしこの法律がなければ、ああまでどっぷりと
「戦争」に浸かってしまうことは
なかったはずだと思います。

これからの100年を想う時、
このことをしっかり考慮にいれて置かなければ
ならないのだと、僕は考えます。
明日へのモノ-ガタリ (60): モノ-ガタリ的充足度 - 野中
2024/12/20 (Fri) 04:05:58
いつも「経済的価値観はもう時代遅れ」などと言っているので、
少しずつ、モノ-ガタリ的な価値観を明確にして、
できれば数値化できたらいいな、などと考えています。

とりあえず叩き台です。いずれも5点満点でつけます。
A 親密な人たちとの良好なコミュニケーション。
B 健康の状態。
C 内的なモノ-ガタリの状態。
D 経済状況。

なお、いずれも③が「ふつう」です。
それぞれを二乗して合計します。(100点満点)

なお、僕の場合は
A-2、B-2、C-5、D-2 なので
2×2+2×2+5×5+2×2=37(点)
なかなか厳しい数字でした。特にAとBがダメですね。
何とか改善して、
A-4、B-3、C-5、D-2 ぐらいにして合計54点
つまり半分ぐらいの充足度
にしておきたいです。がんばります。

なお、Dについては、
5・・・今後ともお金に困ることはなさそう。
4・・・10年後にもふつうに生活できていそう
3・・・ふつう
2・・・何とか生活が成り立っている。
1・・・とても普通の生活とは言えない。
というふうに評点すればよいと思います。
明日へのモノ-ガタリ (59): 夫婦別姓 - 野中
2024/12/04 (Wed) 05:06:41
名前というのは、その人のモノ-ガタリを示す
ラベルのようなものです。
つまり、現状は、結婚すると、無理矢理、
同一のラベルのモノ-ガタリに変えられてしまうのです。

それは、ナラティヴ(個のモノ-ガタリ)の抹殺に等しい
「強制」であると思います。
つまり日本の現行の制度と習慣では、
女性だけが「一貫して自分自身として生きる権利」
を剥奪されているとみなしていいと思います。

これでどうやって、「自分らしく生きる」ことを
目指せるでしょうか。

選択的夫婦別姓の制度は、その意味で、
一日でも早く、導入されるべきだと
考えています。
これからはナラティヴ(個のモノ-ガタリ)が尊重
されていく時代です。
ナラティヴのラベル自体がきちんとしていなければ、
その新しい時代に進みようがありません。
明日へのモノ-ガタリ (58): 虚飾と本質 - 野中
2024/11/29 (Fri) 20:08:54
ファッションは「虚飾」なのか?
なかなか微妙な問いだとは思いますが、
「飾らないお洒落」もあるように、
ファッションは結構、奥深いものがあるように思います。

ファッションは結局、自分の世界観の外部への
表出ということなんだと思います。
例えば、芸能人が派手な服装や目立つ装飾品を
纏うことは「注目を浴びる」ことが仕事の彼らにとって、
ごく当たり前のことですし、そういうのは
明らかに「虚飾」にはならないと思います。

では、本来的な「虚飾」とは何なのか?
それは多分、「自分のナラティヴを偽って生きる」
ことでしょう。

そう考えて見ると、人間の本質は、その人の持つ
ナラティヴ(個としてのモノ-ガタリ)ということに
なりそうです。そして虚飾とは、自分の本来の
ナラティヴを捻じ曲げて外部に表出していることに
ほかなりません。

虚飾によって本質と違う捻じ曲げられた外部表出を
行っている人と、我々は真の意味で仲良くすることは
できません。
人はナラティヴで関わるものだからです。

=== === === === === ===
モノ-ガタリと人間の関わりについては、ブログの「存在とナラティヴ」
を参照してください。少し長いですが。
また、これからの時代の「平和」について、「平和な世界に向けて」
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明日へのモノガタリ (57): マス・コミへの信頼 - 野中
2024/11/21 (Thu) 10:51:48
マス・コミ批判が相次いでいます。
不倫報道の扱いや、パワハラ事案の報道、
果ては世界情勢の分析まで。
でも、個人的にはSNSのデマの方がずっと怖いです。

SNSの記事では「目立つ方が読まれる」
「目立つ方が儲かる」という、ところから、
自ずと、虚偽の情報を流したり、「ええっ」という
見出しをつけることが多いようです。

戦争状況のデータなどをSNSで毎日チェック
していますが、「ロシア壊滅」という見出しを何度も
見かけました。そしてその記事の中身はというと、
「××氏は、このままだとロシアは壊滅すると、語った」
などとなっていて、見出しの論調と全く違うことが、
書いてあります。
特に「広告」で、ひどいものが目立ちます。
たとえば「東京大学の研究で」などという記事で、「東」の字が、
日本で使われていない略字のものが使われていて、明確に
詐欺まがいの商品だと分かったりします。

現在のマス・コミが偏向しているとされるのは、
これまでが「信頼されすぎ」ており、その信頼の上に
安住してきた、という歴史があるせいだと思います。

しかしマス・コミの発信は、いわば報道のプロであり、
明確な虚偽報道は、その報道機関の決定的な汚点と
なりますし、虚偽でなくても名誉棄損となることも
少なくありません。つまり、マス・コミの報道は、
SNSの「惹きこみ記事」に比べれば、
虚偽の率は低いと考えていいのだと思うのです。

最近の「マス・コミ不信」の傾向は、ある意味正しい
部分はあるとは思いますが、「SNSよりはずっとまし」
という感覚は必要だと考えます。
明日へのモノガタリ (56): 政治の貧困 - 野中
2024/11/12 (Tue) 12:46:12
アメリカでは、ドナルド・トランプ氏が
次期大統領に選出されました。
「自国ファースト」を宣言したわけです。
じゃあ日本はどうなんでしょう。

今回、アメリカ国民が何を選んだことになるのか。
さまざまな解釈が可能でしょうが、僕は、
「よく見えない未来より、1950年代の過去、
つまり、全世界で独り勝ちした強いアメリカ
という過去の栄光を選択した」のだと思っています。

アメリカという国は「世界一」にこだわって来ました。
だからいつもナンバー2を叩いて来たのです。
冷戦時代のソビエト。1980年代の日本。現在の中国。
・・・つまりナンバーワンの自国を脅かすものはすべて
「敵」だというわけです。

この感覚が極めて貧しいものであることは明白です。
今回の選択で、アメリカが「近代」末期の断末魔の
時期を乗り越えられない存在
であることが明確になったと思います。

日本とすれば、動きは楽になったと思います。
アメリカが過去に囚われ、「近代の閉塞」に身動きが
取れなくなったのを尻目に、
いち早く「近代」から「新生代」へ脱皮し、
世界のリーダーとなるべく、
内外ともに改革を推し進めていけばいいのですから。

まあ、そのためには、日本の中で最も遅れた部分、
「政治」をさっさと刷新しないといけないですが。

=== === === === === ===
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明日へのモノガタリ (55): 散歩しよう - 野中
2024/11/01 (Fri) 15:30:27
散歩しましょう。
といっても、ただ歩くだけではないのです。
ぼんやりと、
歩きながら考えましょう。

歩くことはすごいことです。
近代の思想家として著名な
ジャン・ジャック・ルソーは自伝的著書の「告白」で、
こんなふうに言っています。(桑原武夫・訳)
─────────────────
ひとり徒歩で旅したときほど、ゆたかに考え、
ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、
ゆたかに私自身であったことはない。
徒歩は私の思想を活気づけ、
生き生きさせる何ものかを持っている。
じっと止まっていると、
私はほとんどものが考えられない。
私の精神を動かすためには、
私の肉体は動いていなければならないのだ。
─────────────────
じゃあ、どこを歩いたらいいのか・・・・
僕はディズニーシーをお勧めします。
のぼりくだりが意外に多いので、割に疲れますが
景色の豊かさは抜群です。
一人で歩けば豊かに考えられますし、
二人で歩けば・・・・・・。
明日へのモノガタリ (54): キャベツ畑で - 野中
2024/10/31 (Thu) 02:06:59
キャベツ畑でキャベツが取れた。
ひいほい、ひいほい
たくさんいたよ
だけどさ、すごくおいしいキャベツなんで
青虫さんがたくさんついちゃったんだ。

しかたないんで
オレはさ、青虫さんたちに
相談したのさ。
もしよかったら、みんなこの端の
キャベツだけに集ってって

青虫さんさんたちは
ああいいよって言ってくれて、
よるのうちに、
畑の一番端のひと畝(うね)に
わさぐちゃ、わさぐちゃ
青虫さんたちは集って来た。

そして、食べた食べた食べた。
わさわさ、わさわさ
一月したら、畑の端のキャベツは、
青虫さんたちがみんな食べてしまった。

だけどさ、急におとなしくなっちゃったんだ。
そして、青虫さんたちは、
みんな蝶になって飛んで行った。
オレはなんとなくうれしかったさ。
明日へのモノガタリ (53): ノーベル平和賞 - 野中
2024/10/24 (Thu) 02:35:50
今年のノーベル平和賞を
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会
が受賞しました。
これは、核廃絶に向けて、日本への「もっとがんばれ」
という、世界からのエールなのだと思います。

不幸な事ですが、日本の反核兵器運動は、何度も
分裂・対立を繰り返し、そのたびに反核への
エネルギーを減殺して来ました。

それでも日本の反核運動の灯が消えなかったのは、
日本人の心の底にある、人間に対する信頼と、
核兵器に対する憎悪の感情によるものだと思います。

僕は日本人のアイデンティティは、戦争を憎み、
平和を祈る心だと思っています。
だからこそ憲法第9条は
変えてはいけないものだと考えます。

「核なき世界」・・・これは理想論などではありません。
早急に実現しなければ、世界が滅ぶ、
そういった、極めて現実的な目標なのです。
その実現を目指して、一刻も早く、
「非核連合」を立ち上げて欲しいと思っています。
ノーベル賞受賞を無為に終わらせないためにも。
明日へのモノガタリ (52): いっしょにディズニー - 野中
2024/10/15 (Tue) 12:09:49
いっしょにディズニーに行く。
これは本当に幸福な体験です。
一緒にディズニーに行くことは、
ディズニーのモノ-ガタリを共有できるのですから。

たしかに、ディズニーがあまり好きでもない人と行っても
あまり盛り上がらないかも知れません。
でも、それでも、ディズニーのモノ-ガタリ空間の中に
一日、一緒に居れば、お互いのモノ-ガタリとの接し方が
浮かび上がってきて、有意義な心の交流になると思います。

まあ、問題は「どうしても仲が良くなりたくない人」
と、一緒に行くことになってしまった場合です。
この場合は、ひたすら「別行動」にトライしましょう。
それが難しいなら、長時間かかるスタンバイに並んで、
ひたすら自分のスマホを睨んでいましょう。
でないと、普通にしていたら、気付かないうちに
「仲良く」なってしまいますから。

仲が良い人と一緒に行くディズニーは最高です。
もちろん、その日その時も幸福ですが、
10年、20年と、その幸福な思い出は消えないのです。
何しろディズニーは
「世界で一番幸福な場所」ですから。
明日へのモノ-ガタリ (51): 迷ったらディズニー - 野中
2024/10/02 (Wed) 06:59:29
日々の生活を送る中で、頼りになるのは
ナラティヴ(自身のモノ-ガタリ)です。
これは言ってみれば、大海を航海するときの海図と羅針盤
のようなもので、意識するしないに関わらず生きている存在は
みんな持っているものです。

このナラティヴを持っているからこそ、すべての人間、
(厳密には、「すべての生命的存在」なのですが、今回は
人間に話を限定させていただきます)は、円滑に日常
生活を送れるわけです。

けれど、もちろんナラティヴは万能ではありません。
どんなに有能でも、それは海図や羅針盤なのであって、
間違っていたり、おかしかったり古かったりします。
そして、海路をしっかり確保するためには、ナラティヴを
もう一度見直してみることが、時々必要となります。

僕はそんなときは・・・・・・まあこれは個人的な心構えなのですが
・・・・・・「迷ったらディズニー」と思うことにしています。
ディズニー・パークにいるときの、あの圧倒的な幸福感に
立ち返れば、海路をはずしてしまうことはないはずだと、
僕は考えています。

実際、ぼおっと何も考えずに、「シンドバットの冒険」を
何度も乗っていれば、少しずつ「モノ-ガタリ」が僕の中に
沁み込んで、自然と自分のナラティヴが回復していく気が
するのです。

つまり、僕だけなのかも知れませんが、ディズニー・パークは
僕が僕らしく生きるために、どうしても必要な場所なのです。
僕自身のナラティヴをしっかり持っておくために。

=== === === === === ===
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明日へのモノガタリ (50): 華氏451度 - 野中
2024/09/28 (Sat) 04:39:27
「華氏451度」というSF作品をご存じの方は結構多いと思います。
華氏451度(451°F)は、ほぼ233℃で、これは紙が自然発火
する温度を示しています

この作品はレイ・ブラッドベリによって1953年に書かれたもので、
1966年、フランソワ・トリュフォー監督によって映画化されました。
また、現在、新たな映画化の話もあるようです。

70年も前の小説ですが、当時気鋭のSF作家だったブラッドベリが
本の所持や読書が禁じられた、架空の未来社会を描いていて、
非常に興味ある内容になっています。
題名は本の素材である『紙』が自然発火する温度を意味しています。

華氏というのは、アメリカで主に使われる温度単位で、
詳細は省きますが、
華氏0度(約-32℃)・・・かなり寒い  
華氏100度(約38℃)・・・かなり暑い
というイメージで見るといいと思います。生活するには
こちらのほうが摂氏よりもやりやすいかなと思います。

本の話に戻ります。
華氏451度(約233℃)は紙が自然発火する温度を示していて、
この作品は、『本を燃やす=焚書』をテーマにしています。

焚書とは、書物を焼却すること、特に書物に記された思想を禁止し、
その思想の広がりを抑止する目的で、権力者が公開の場で
関連する書物を焼却する行為を言います。
古くは、秦の始皇帝の焚書坑儒(前213)から始まり、
ナチスドイツの焚書(1933)、中国文化大革命の焚書(1966)まで
延々と行われてきた思想・言論の弾圧・統制手段です。

ブラッドベリは、『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる
文化の破壊(a story about how television destroys interest in
reading literature)』だと言っていたそうです。
確かに、テレビやSNSは、モノ-ガタリを速くつかもうとするあまり
物事の理解を浅く単純にしてしまいがちだなと、思います。
やはり人間の文化を正常に発展させるためには書物が必要です。
明日へのモノ-ガタリ (49): 運転手がいない - 野中
2024/09/19 (Thu) 22:39:28
旅行をする楽しさで最大のものは、新しいモノ-ガタリと
出会うことなのではないかと、僕は思います。
では、その旅行で、運転手の居ない電車に乗るとしたら
どうなんでしょう。

もちろん、旅行に出かけて、乗った電車の運転手さんの顔を
見ることなんて殆どありません。
けれども無意識のうちに僕たちは見ていない運転手さんに
旅行に連れて行ってもらっている気分になっています。
つまり運転手さんは、旅行というモノ-ガタリの大事な
登場人物なのです。

運転手さんと同じ風景を見て、旅行している、その思いが
旅行を楽しむ、大きな要因の一つになっているのです。

ところでこのたび『新幹線自動運転』の計画が発表され、
新幹線の一部が自動運転になるそうです。
僕はそう聞いてすごく不安に思ってしまいました。
旅行と言う楽しいモノ-ガタリから、
主役級の登場人物が消えてしまうだなんて。

ネットで「《つばめを動かす人たち》という動画を観ました。
60年以上前のものですが、旅行をする楽しさが
ひしひしと伝わってくる映像でした。
鉄道愛好家としても著名だった、作家の内田百閒さんが
愛してやまない列車でしたが、彼なら自動運転の新幹線に
喜んで乗ったでしょうか。
明日へのモノ-ガタリ (48): モノ-ガタリと社会 - 野中
2024/09/09 (Mon) 03:05:43
社会の基本的なモノ-ガタリが変われば、社会も変わるはずです。
けれどもいつの時代にも「変えたくない」人はいるものです。
「選択的夫婦別姓」なんていう当たり前の制度が、
未だに認められないのは、この「変えたくない」人々が
相変わらず、隠然たる力をもっているからでしょう。

人々がディズニーに行って、幸福になれるのは、
ディズニー自体が、まず「モノ-ガタリ」を持ち、それに
沿う形でパークが作られ、そして運営されているからです。

つまり、我々が現・社会で幸福になろうとするなら、
まずそれぞれが「モノ-ガタリ」を持ち、それに沿う形で
社会を変えて行けばいいことになります。

でもなかなかそうはならないようです。
一つの例として、日本の家族制度を挙げます。
現行の日本の家族制度は、一方的に女性の側に負担を
押し付けて、それで成り立っている制度です。
姓を変えて、夫と同じ「家族のモノ-ガタリ」に加わるのは、
人格全体が変わってしまうぐらい大変なことです。
それは女性の「モノ-ガタリ」を圧殺することで、維持できてきた
制度だと言えるでしょう

「変えたくない人々」は、要するに女性たちが幸福になることが
嫌なのでしょう。そうとしか思えないのです。
これまでの家族制度で生きて行きたい人は、もちろん
夫婦別姓を選択しなければいいだけの話ですから。
=== === === === === ===

モノ-ガタリと人間の関わりについては、ブログの「存在とナラティヴ」
を参照してください。少し長いですが。
また、これからの時代の「平和」について、「平和な世界に向けて」
という文も載せました。ご参照下さい。
(ブログ冒頭から下にスクロールして、「存在とナラティヴ」や「平和な
世界に向けて」の題字をクリックしてください。ブログは下記から。)
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なお、エリアXの記事も含めて、ご感想などは、エリアXの返
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明日へのモノ-ガタリ (47): 楽しい学校 - 野中
2024/08/26 (Mon) 13:41:36
学校って、本来楽しい所です。
学校って何を学ぶところなのか?
簡単です。いろんなモノ-ガタリを学ぶところなのです。
だから本来、学校はすごく楽しい所のはずなのです。

学校でいろいろなモノ-ガタリを知って、
自分なりに考えて、自分のナラティヴ(個としてのモノ-ガタリ)
を少しずつ作り上げて行く、こんな楽しいことはありません。

いちばんモノ-ガタリとは遠そうな数学から考えてみましょう。
古代のピタゴラス学派は「この世のすべては数字で示せる」
なんて考えていたみたいです。
数学のモノ-ガタリは、最初はすごく分かりにくいです。
式の計算やら因数分解やらで、「ナニコレ」の世界です。
けれど微分積分までくると、そのモノ-ガタリがパッと
見えて来ます。
それは今から3~4世紀前の学者たちが必死になって
がんばってくれた成果です。名前で言うと、
ニュートンやライプニッツと言った人たちです。

微分積分をやっていない人に説明すると、
要するに『変化』というものをそれまでよりずっと
鮮明にするのです。
要するに、微分積分は『変化専用の虫メガネ』
みたいなものです。
その虫メガネを手に入れた時、僕はあまりの
うれしさに泣いてしまいました。
なぜそれまで数学をやらされてきたのか、
一気に分かったような気がしたからです。

いうまでもないことですが、他の教科はもっと直接
モノ-ガタリと関わっています。
たとえば英語です。
ディズニー映画の「ハイスクール・ミュージカル2」
で主題歌のように唄われる、
You are the music in me.
という曲がありますが、僕はこの「in me」に何だか
ものすごく感動してしまいました。
訳すとしたら「私の認識領域のすべて」とか
「私の内的世界のすみずみまで」などというふうに
なるのでしょうか。コトバのモノ-ガタリの奥深さを
思い知らされた気がしたものです。

ともかく、実は学校で教えている教科はすべて「楽しいモノ-ガタリ」
にかかわるものなのです。
つまり学校で教わっていてタイクツなのは、教える先生たちが
「仕事」として、ひいては「近代合理主義的ルーティン」として
教えてしまっているからなのです。

もうすぐ「近代」が終わります。(いや、「終わらせるべき」と言った
ほうがいいのかも知れませんが)、そうなれば学校は今よりずっと
楽しいものになり、『生徒を選ぶ学校』から『生徒が選ぶ学校』へと
変わっていくと思います。
=== === === === === ===
モノ-ガタリと人間の関わりについては、ブログの「存在とナラティヴ」
を参照してください。少し長いですが。
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明日へのモノ-ガタリ (46): ファンタジア - 野中
2024/08/22 (Thu) 14:45:23
映画「ファンタジア」は1940年の作品です。
84年前のこの映画で、天才・ウォルト・ディズニーは
何を人間に示したかったのでしょう。

フィンランディアという楽曲があります。
シベリウス作曲のこの曲は、フィンランドの人々を強く
結束させ、フィンランドという国を守り抜く大きな力に
なりました。
つまり「フィンランディア」は「フィンランドの人々の精神」
として、フィンランドを強固に支えています。

同じように、「ファンタジア」は、「ファンタジーを支える精神」
として、ウォルト・ディズニーが最も大切にしている
「ファンタジー=良質で幻想的な物語」の素晴らしさを
ウォルトらしいやり方で示してみせたものです。

この映画の中では、生命とファンタジーの関わりが、
論理的でなく、感覚的に、そして音楽を使って示されます。
この映画を見ていて、厳粛な気持ちになるのは、
すべての場面で、ウォルトのファンタジーへの想いが
凝縮して示されているからです。

もちろん『純粋な音楽ファン』の方々の中には、
このような「音楽」の扱いに
ある種の不満を感じる人もいることでしょう。
発表当時から、一部の評論家は、この作品を、
『偉大な失敗作』と呼んだぐらいです。

どういう不満かというと、それはこの作品から60年後に
発表された続編、「ファンタジア2000」を観ると、はっきりします。
ファンタジア2000では、冒頭にベートーヴェンの『運命』が
使われていますが、(この選曲自体にもかなり問題があります)
そこに出現する映像は、「イメージの固定化」でしかないもので
音楽を聴く楽しみを狭め、ファンタジーの広がりを阻害して
いるものです。

ウォルトは、こういう不満を、しっかり把握していたのだと思います。
そしてあえて音楽に『映像』を与えたのです。
そこには本当にぎりぎりのせめぎあいがあったと思います。
音楽と言うカタチのないものと、ファンタジーという現実に
存在しないものを結び付け、映像として示すには、
限りない勇気と機知と、そして子供のような稚気が
必要だったことでしょう。

「ファンタジア2000」には、残念ながらこの
「ぎりぎりのせめぎあい」が感じられません。
ファンタジア2000を観ても、心が膨らんで
こないのは、恐らくそのせいでしょう。

古い方の「ファンタジア」に話を戻します。
この作品は、ファンタジーを愛するものに
大きな勇気を与えてくれます。
フィンランドを愛する人たちが、フィンランディアに
大きな勇気を与えられるように。
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